【第2号】「そこそこ、ほどほど」の選択肢はあるのか?

1.そこそこの働きとは

 若者の意識調査で様々な傾向が発表されているが、目に付くのが「そこそこ働いて、ほどほどの収入が得られればいい」という考え方だ。ここでいう“そこそこ”とはどのくらいのことを言うのだろうか。
 もし、「定時に退社して好きなことに時間をかける」「残業してまで仕事を片付ける必要はない」「プライベートを犠牲にしてまで仕事をしたくない」という“そこそこ”ならば、きっと“ほどほど”の収入は得られないだろう(大学までがむしゃらに勉強して、一流大学と呼べる大学を卒業し、大手企業に就職できた人は違うかもしれないが)。

2.選択するためには

 東北の様々な企業の給与体系の見直しをお手伝いしている立場から感じることは、“ほどほど”の収入以上を得ている人は、“一生懸命”働いている人たちであるということである。“ほどほど”の働きの人は“ぎりぎり”の収入しか得られていない。
 選択肢を持っている社員はしっかりと自分の考えを持って、それなりに一所懸命働いた結果を享受できる立場であるに過ぎない。楽して選択肢は得られないのである。一生懸命働いて、雇う側と対等もしくは上の立場(意識)にあるからこそ、少ない報酬も高い報酬も選択できるのであり、その努力をしない人間には少ない報酬の選択しかないのである。

3.「そこそこ」の前に

 確かに滅私奉公して働いても将来の保障がなくなり、不安な時代になった。ただ、一生懸命に働くことが「滅私奉公」なのだろうか。自分自身の経験に照らし合わせても、単純労働がスキルを磨かないとは思えない。そう捉えることが問題なのではないだろうか。私は自分が学生時代にアルバイトで経験したこと(4つの職しか経験していないが)は全て、今の自分の役に立っていると実感している。どんな仕事であっても、自分がそこから「学ぶ姿勢」を持っていれば得るものは必ずある。
 本当に最近の様々な記事にあるように若い人たちの意識が、「そこそこ、ほどほど」になっているとしたら、将来、格差はもっと広がっていく可能性が高い。10代、20代の成長の可能性が高い時期にスキルを伸ばさないとそれは大きなツケとなって自分に降りかかってきてしまう。
 「そこそこ、ほどほど」の考えを全面的に否定するつもりはない。ただ、「そこそこ」の前に「コツコツ」や「ガリガリ」があるということである。そこを経過しない「そこそこ」は危険である。